長崎は昔からそこにある都市であり、歴史的に大きな役割を担っていた地域です。その歴史を感じさせる場所に行ってみましょう。観光名所の訪問記だけでなく、アクセスについても懇切丁寧に述べています。
出島:江戸時代の海外との窓口
多くの人は日本が江戸時代に鎖国していたことは知っていると思います。しかし、全く貿易をしていなかったのではありません。その拠点の1つが長崎市の出島です。その出島を訪問しました。
出島へのアクセス
その出島はどのように行けば良いでしょう?一番は路面電車で行くことです(長崎市営ではないので、長崎「市電」ではありません)。
図1. 出島の位置
出島にはさまざまな施設が復元されていますが、その代表格の建物に焦点を絞って位置を示しています(図1)。長崎駅からのアクセスを簡単に紹介しましょう。
写真1. 路面電車の長崎駅前電停
長崎駅でJRの列車を降りると、そのまま改札に向かいます。改札を出て正面に歩道橋と路面電車の停留所があります。その停留所を歩道橋から見てみましょう(写真1)。このうち、JRの駅と遠いほうのホームに向かいます。
写真2. 長崎駅から見て奥の乗り場へ向かう
その乗り場を見つけたら、並びます。ここでは1系統と3系統が発着しますが、1系統を選んでください。空いているからといって、3系統の誘惑に負けないようにしましょう。降りるのは出島です。マップル先生によると、8:00~20:40に空いています。意外と遅い時間までやっているのですね。なお、出島の停留所の正面に出島の出入口がありますが、この出入口は正面の出入口ではありません。遅い時間だと正面の出入口しか空いていないことがあります。そのため、正面の出入口の場所も示します。
図2. 正面の出入口(昔と同じく橋を渡ります)
川沿いに歩けば正面の出入口は見つかります。路面電車の停留所に近い出入口が閉まっていたら、左にある川沿いに歩いて正面出入口が空いているかも確認しましょう。
出島を楽しむ
さて、出島を楽しみましょう。出島は昔の建物に入って展示物を眺めると、歴史的背景がわかるようになる仕組みです。カピタンという建物があったりしますが、大切なことは細かな建物の名称を覚えることではなく、全体の雰囲気を楽しむことです。
さて、出島の概要を復習しましょう。詳しい人には不満でしょうが、以下の歴史をたどっています(展示物の内容を要約してみました)。
1) ポルトガル人が日本に到着、カステラとともにうさん臭いキリスト教も広める
※日本人の宗教観は多神教が基本です(そのため神も仏もキリストも何でも信仰の対象にしています)。それなのに、キリスト教は他の宗教を排除する考えが基本だったので、相容れない部分があったのです。
2) ポルトガル人が出島に集結して貿易を行う
※江戸幕府が一応警戒している様子がわかります。「異人」は集結させて監視しようという意図と理解しています。
3) それでもキリスト教を広めようとするポルトガル人を出禁にする
4) 出島が空いたので、オランダ人をここに集結させる
※鎖国の完成です。オランダ人は純粋な商売が目的でしたので、江戸幕府も安心できました。また、貿易の利益を独占したいという江戸幕府の意図もあったでしょう。
5) オランダと江戸幕府の友好関係が始まる
※日本は東洋の国、オランダは西洋の国、ということでお互いに持っていないものを持っていたので、お互いの利害関係が一致したのでしょう。
6) しかし、開国が必要な情勢になり、国内いくつかの港が開港。出島はその独占的な役割を終える
※オランダも開国の必要性を江戸幕府に伝達していました。開国より前のアヘン戦争などの情報も掴んでいたことでしょう。
歴史の講義はこの程度にして、美しい出島の姿をご覧いただきましょう!
写真3. 路面電車の停留所から眺めた出島
路面電車の停留所から中が見えます。江戸時代の街並が復元されています(写真3)。外国との窓口でしたが、西洋化することはなくあくまでも日本の街並だったのですね。
写真4. 美しい建物の内部
写真5. 美しい建物の内部
カピタンだの何だのの建物です。昔の様子が復元されています。いちいち個々の建物の名称を覚える必要はありません。雰囲気をつかみ、解説を読んで理解する(そして忘れる)ことが重要です。
写真6. 美しい建物から眺めた外の風景
写真7. オランダ風の食事風景(でも人はおらんね!)
オランダ人は出島から出ることは許されず、女性の立ち入りも禁止されていたようです。江戸幕府が異人を警戒していた様子がわかります。そのため、オランダ人は故郷を懐かしみ、たまに西洋風の食事をとっていたようです(写真7)。でも、食材はどこから仕入れたのだろう?
女性の立ち入りは禁止されていましたが、遊女の立ち入りは許可されていました。その結果、子供ができたこともあったようです。でも、なぜ子供ができるのでしょう?
写真8. 食事についての説明
食事について説明がありました(写真8)。私の解説よりもためになりますね。
写真9. 昔の様子が復元されて美しい
建物の外に出てみました。昔の街並が復元されています。「近代以降の日本はこのような街を取り壊して、無機質なビルばかり建てました。ヨーロッパのように昔の様子を残すべきだ。」という人もいますが、日本全国このような街だと飽きると私は思うのです。
写真10. 壺はどこでも人気(私が売ったら売れるかな?)
展示物に壺もありました(写真10)。遠く離れたウィーンの王宮にこのような展示物があったことも考えると、このような工芸品は人気のようです。私も壺を売ったら売れるのかな?
写真11. オランダの誠意に対する江戸幕府の反応
オランダは江戸幕府に対して敬意を払っていたのでしょう。そのため、象を送るなどの献上もしています。しかし、いつも江戸幕府は喜んでいたわけではないようです(写真11)。だって、エサ代がかかるしね!
写真12. 和室にベッド!
和室を眺めるとベッドがありました(写真12)。畳は痛まなかったのでしょうか?このような場所には床材を敷いて荷重を分散させるべきでしょう(注.日本国内で床材を製造したのは1970年代以降と聞いています)。
写真13. 正面から眺めた出島
最後に出島を眺めます(写真13)。昔はここは島だったのですが、明治以降に埋め立てられてただの陸地になってしまいました。
シーボルトの展示もありましたが、シーボルトはオランダ人ではありませんでした(ドイツ人です)。江戸幕府からの追求には、「山オランダ人だ」と言い張ったようです。「そんな人はおらんだ」とは言われていないようです。
グラバー園
さて、幕末から明治にかけて「西洋化」が進行しました。その跡の1つにグラバー園があります。
グラバー園へのアクセス
長崎でも有名な観光地であるグラバー園。そのアクセスについて述べましょう。
図2. グラバー園の位置
グラバー園の位置を示します(図2)。多くの人は大浦天主堂(※)で降りると思いますが、石橋で降りたほうがラクにアクセスできます。こちらのほうが坂道を登る必要がないためです。
※古い路線図や観光ガイド(マップル先生も含む)は旧名称の大浦天主堂下と案内していますが、弊サイトでは2018年8月1日からの新名称を使用しています。
では、その石橋まではどのように移動するのでしょうか?長崎駅前からアクセスする方法を述べましょう。長崎駅前で1系統に乗ることは、出島と同じです(乗り場も同じです)。その後、途中の新地中華街(旧名称:築町)で5系統に乗りかえる必要があります。新地中華街で降りる際には運賃を支払いますが、このときに運転士に申告して乗継券を発行してもらいます。
写真14. 新地中華街での乗り換えの様子
新地中華街(旧名称:築町)で乗りかえる際は、線路を渡って別のホームに向かいます(写真14)。その後、5系統に乗り継ぎます。ここで乗りかえる人が多いため、迷う心配はありません。ここまで乗りかえが多いのであれば、直通電車を走らせるほうが良さそうですが、進行方向が変わるために難しいのでしょう。
無知な観光客は大浦天主堂でおりますが、マップル先生の教えに従って石橋まで乗りましょう。
写真15. 石橋に着いた路面電車
のんびりとした電車は石橋に着きます(写真15)。大浦天主堂-石橋は美しい川沿いの景色を堪能できます。大人なら、その水質に触れないことですね。
写真16. 変哲のない街を行く
石橋に降りたら、進行方向右手に進みます。その道中はこのような街が広がります(写真16)。観光客がいない「真の長崎」といえるかもしれません。
写真17. グラバー園は左
つきあたりっぽい場所を左に曲がります(写真17)。このあたりの路地も興味深いのですが、暑くてあまり歩きたくない…。
写真18. 観光客の味方、斜行エレベーター
そんなところに斜行エレベーターが登場します(写真18)。地元住民のために整備されたのが発端ですから、このエレベーターは無料で乗れます。無料で山の上まで運んでくれるのは助かりますね。
写真19. 斜行エレベーターの頂上から眺める長崎市内
その斜行エレベーターを降りると、長崎市の景色が見渡せます(写真19)。
写真20. 美しい長崎市内
やはり美しい街ですね(写真20)。
写真21. 今度は普通のエレベータに乗る
少し歩くと、普通のエレベータがあります。普通と異なるのは、建物の中に設置されていないことです。ここも無料です。
写真22. やはり美しい街
写真23. グラバー園の裏の入口に着いた
このように、坂を登ることなくグラバー園に着きました。マップル先生はさりげなく疲れない方法を提案してくれていますね。同様の行動をしている観光客はほとんどいませんでした。
グラバー園の観光
google先生によると「整備された庭園、洋風の歴史的な邸宅、見晴らしのよさで知られる閑静な野外博物館。」とあります。グラバー氏は、日本の近代化に貢献したスコットランド人(イギリス人)ですね。私は彼の知り合いではありませんから、これ以上の言及は避けましょう。そう、美しい園内を紹介するのです。
写真24. 旧三菱第2ドックハウス前の庭園
写真25. 旧三菱第2ドックハウス
写真26. 旧三菱第2ドックハウスの内部
写真27. 旧三菱第2ドックハウスの内部
私は上から見学することになります。そのため、旧三菱第2ドックハウスからスタートします。内部は冷房がかかっており、とても快適です。文明開化という感じの建物ですね(写真24-27)。
写真28. 像!
途中に像もありました(写真28)。東京には私の像が建つことでしょう。
写真29. どんどん階段を降りる
グラバー園は斜面に位置する施設です。そのため、園内をまわるには階段を上るか下るかする必要があります。上りはエスカレーターもあるようです。そのうち、旧グラバー住宅が出現しました。ここがメインとなる施設ですね。
写真30. 旧グラバー住宅
写真31. 旧グラバー住宅
江戸時代末期に建設された日本で現存する最古の洋風木造建築の建物です(写真30-31)。本物の「洋風」の建物は石造りですから、パチものですね。ただし、ものは言いようですから、このように言うとありがたみが出ますね(高温多湿の日本では木造のほうが合っています)。
写真32. 旧グラバー住宅の美しい室内
室内はまぎれもなく洋風です(写真32)。
写真33. 旧グラバー住宅
写真34. 旧グラバー住宅の美しい室内
写真35. 旧グラバー住宅
写真36. 旧グラバー住宅の美しい室内
写真37. 旧グラバー住宅の美しい室内
写真38. 旧グラバー住宅の美しい室内
このように、多くの部屋があることがわかります。展示は室内と屋外を通る経路ですから、室内が現れたり、屋外を通ったりと飽きさせません(写真33-38)。
写真39. グラバー氏の輝かしい人生について(私は覚える気はありません)
グラバー氏の人生についても見てみましょう(写真39)。今よりも行き来が難しい時代、イギリスから東洋の島国日本まで仕事をすることは覚悟がいることでしょう。どうやら、日本で家族も設けたようです。
写真40. グラバー園から眺める美しい海
写真41. グラバー園から眺める美しい海
グラバー園からは海も眺められます(写真40-41)。このようにして、歴史的な遺産を堪能したのです。
グラバー園周辺
グラバー園から下の街を歩いてみましょう。
写真42. グラバー通りの光景
写真43. グラバー通りの商店
いかにも観光地という風情の通りを歩きます(写真42-43)。石橋で下車するとこのような「表通り」を歩けませんが、1度通ればじゅうぶんでしょう。
写真44. やる気のない熊さん
その中で、ぬいぐるみを目撃しました。暑いためか全くやる気を感じません(写真44)。なお、この店内は空いているように見えました(私は入っていません)。
写真45. グラバー通り(ここを登りたくない…)
写真46. 人で賑わうグラバー通り
このような人で賑わうグラバー通りを歩き、グラバー園の観光を終えたのです。
写真47. 川沿いの風景(路面電車から撮影)
平和公園
さて、開国以降、日本は「富国強兵」の道を歩みます。最初こそは列強諸国からの防衛という部分が強かったのでしょうが、徐々に列強に目をつけられてしまいます。その最後は太平洋戦争(大東亜戦争ともいいます、名称についての議論はやめましょう)で締めくくられます。その太平洋戦争では長崎に原爆が投下されます。1945年8月9日のことです。長崎はこのような悲惨な歴史の舞台にもなってしまったのです。ここの跡地は「平和公園」とされています。軽く見ていきましょう。
平和公園へのアクセス
その平和公園は、中心部とは離れています(図3)。平和記念公園などのような名称ではなく、シンプルな「平和公園」です。その点に注意しましょう。
図3. 平和公園の位置
平和公園は路面電車の平和公園(旧名称:松山町)停留所から歩いてアクセスできます。1系統であれ3系統であれ、赤迫行きに乗れば間違いなく到着できます。長崎駅前から乗る場合は、3系統のほうが空いているので、オススメです。
写真48. 路面電車の長崎駅前電停(写真1の使い回し…)
多くの観光名所や中心街へは左側の電車に乗る必要がありますが、今回は右側の電車に乗ります。この電車に乗って平和公園で降ります。
写真49. 平和公園で降りた際の景色
ここで電車が映っていますが、この電車の影にコンビニが見えます。このコンビニに向かって歩いて、そのコンビニ前の横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ると目の前にエスカレーターがありますから、そこが平和公園です。
平和公園
私が見た感じでは、「唯一の被爆国日本から世界へ平和を広める」ような押し付けがましい展示はそこまで多くなく、そこまで深刻な気持ちにはなりませんでした。ただし、公園から離れた博物館的なスペースがあることでしょうし、そこでは「平和に関する展示」があるのかもしれません。
写真50. 平和な泉
写真51. ソヴィエト連邦から贈られた像(だったかな)
写真52. ドイツ民主共和国から寄贈された像
泉を過ぎたところに3つの像がありました。ソヴィエト連邦、チェコスロバキア、ドイツ民主共和国というとても濃いメンツから寄贈されたようです。今あるドイツはドイツ連邦共和国ですから、うさん臭いほうのドイツ(東ドイツ)からですね。アメリカからも寄贈されていました。原爆を落とした張本人なのにね。
写真53. うさん臭い像
一番奥に平和祈念像があります(写真53)。かなりの大きさです。現在は長崎が最後の被爆地ですが、それが他の場所にならないことを願うのみです。ただし、「平和」を前面に出す組織には注意したほうが良いかもしれません。
さて、前後ではどこに行ったのでしょうか?
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