ベルリンの壁:イーストサイドギャラリー

記事上部注釈
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ベルリンの壁を見学しました。では、ベルリンの壁とはどのようなもので、現在はどうなっているのでしょう?歴史をまとめるとともに、現在の姿も観察しました。

イーストサイドギャラリー:ブレジネフとホーネッカーのキス

写真. 有名なキス

ベルリンの壁の歴史と概要

まずはベルリンの壁の歴史についてそれなりに詳細におさらいしましょう。簡単にいうと、西ベルリンを包囲して、東ドイツ国民が西側に逃げないようにするための建造物です。簡単な地図を見てみましょう。
東西ドイツと東西ベルリンの関係:西ベルリンは東ドイツの中央にある

図1. 東西ドイツと東西ベルリンの位置関係(ドイツ大使館HPより拝借)

図1においてオレンジ色の領域が西側、赤色の領域が東側の領域です。ベルリンそのものは「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)のほぼ中央に位置します。東ドイツのど真ん中に西ドイツの飛び地があった、そのような認識で(それなりに)合っています。貧しい東ドイツの中心に位置しながら、西ベルリンは豊かでした。したがって、東ドイツ市民が逃げ込んできました。それを阻止したい東ドイツが壁を建造したのですね。

ベルリンの壁建造までの経緯

色々あって、ドイツの西側と東側で異なる国家が建国されました(1949年)。ただし、ベルリンそのものは連合国軍による占領地域でした(この事実は多くの人が認識していません)。実質的には西ベルリンは西ドイツの領土であり、東ベルリンは東ドイツの領土となりましたが、建前上は東西ベルリンとも東西ドイツの領土ではなかったのです。

その後、東西ドイツの経済格差は拡大します。これは政治体制の違い、産業集積の違い(ルール工業地帯は西側に存在していました)などが挙げられるでしょうが、ここでは立ち入りません。そこで、自国民の流出に怯えた東ドイツ政府は東西ドイツの境界線を封鎖します(1952年、このことは意外と認識されていません)。ただし、建前上、自国の領域ではないベルリンについては境界線を封鎖しなかったのです。そのため、東西ベルリン間の行き来はそれなりにできたのでした。1952年以降は東西ドイツの行き来は不可能だったが、東西ベルリンの行き来は可能だったのです。

※この当時、西ベルリンと東ドイツ間の境界はどうだったのでしょう?例えば、西ベルリンとポツダムの間はどうだったのでしょう?私の乏しい知識ではわかりません…。

西ベルリンと西ドイツの間の行き来は保証されていましたので(例えば、ドイツ領域通過列車など)、西ドイツに行きたい東ドイツ市民はベルリンを経由したのです。これでは「抜け穴」ができてしまいます。これには東ドイツ政府は困ったのです。でも、ベルリンは自国の管理下ではないので、何もできないのです。それを見かねたソ連(ベルリン、とりわけ東ベルリンを管理していました)は東西ベルリンを封鎖することを許可します。それがベルリンの壁なのです。このとき、西ベルリンと東ドイツの境界も完全に封鎖したのでした(1961年)。

ベルリンの壁のあった時代

ベルリンの壁は東ドイツ国民が西ベルリンに逃げ込むことを防ぐことを目的とした壁でした。そのため、単に1枚の壁を建造したのではなく、2枚の壁を建造してその間を無人地帯にするなど、国民の脱走阻止に力が込められた(政府にとっては)優秀なシステムを構築しました(そのお金を国民に使えば良いのに)。この成果もあってか、優秀な労働力を確保した東ドイツは東欧でも抜群の経済力を誇っていました。もちろん、ソ連が自分の陣営の正しさを証明するために多大な援助をつぎ込んだこと(それでも西ドイツに惨敗していましたけど)、西ドイツが将来の統一を見越して援助をしたことも、東欧でも抜群の経済力となった要因でしょう。まあ、壁を建造しないと自国民が逃げ出す国家という時点で終わりは見えていたことでしょう。

ベルリンの壁崩壊へ

1989年、東ドイツと似た政治体制であったハンガリーはオーストリアとの境界を開放し(壁がなくとも国民は逃げ出さないとハンガリー政府は判断したため)、ついには東ドイツ国民のオーストリア移動を許可します(※)。こうなると、東ドイツ政府がベルリンの境界線を封鎖する意味は失われてしまいます。1961年以前と同様に抜け穴ができてしまたのです。さらにたちの悪いことに、国民は非合法にどんどん逃げていきます。
※東ドイツ政府は(ハンガリーや東ドイツの親玉である)ソ連に「ハンガリーの決定に対して、圧力をかけて欲しいきちんと指導して欲しい」と抗議したようですが、「それは東ドイツとハンガリーの問題です。われわれにはどうすることもできません」とノロリクラリとかわした主権国家の意思を尊重したようです。

国民がどんどん逃げ出したことに慌てた東ドイツ政府は境界を段階的に開放(※)することを決定、テレビで発表します。しかし、報道官は何を血迷ったのか、「今すぐ、行き来は自由。壁も通って構わない。(私の勝手な要約)」と間違えて発表してしまいます。これを間に受けた国民が壁に殺到し、警備隊が「こいつら数多すぎ、開けちゃえ」と現場で判断してベルリンの壁は突然その役割を失ったのです(1989年)。
※合法的に境界を開けることで国民の歓心を買うことと、「ちょっと西側を見たい」人を再び自国に帰ってこさせるようにしたというように私は理解しています。

この熱気で東西ドイツが再統一(正確には西ドイツが旧東ドイツ領域を吸収)してしまったのです。

コラム.ベルリンの壁崩壊前の実質的な崩壊

ベルリンの壁は1989年11月9日に崩壊し(もっと正確にいうと壁の脅威がなくなっただけで壁そのものはこの日に残っていた)たとされています。しかし、実際にはもう少し複雑な様相です。その点を整理しましょう!

1989年5月2日 ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網の維持を放棄

※ハンガリー人は自由にオーストリア(西側)に行けるが、東ドイツ人は国境での検問あり(ただし検問後政府からの誘導があった模様)

1989年9月11日 ハンガリーが「東ドイツ人が上記の国境を自由に超えることを妨害しない」ことを実施

※東ドイツはチェコスロバキアに「ハンガリーに行こうとする東ドイツ人をチェコスロバキアとハンガリーの国境で足止め」するように依頼

※東ドイツとハンガリーの国境は直接接しておらず、間にチェコスロバキアがはさまる(この3か国は同じ「東側諸国」です)

1989年10月下旬 国内の東ドイツ人の対処に困ったチェコスロバキアが、国内の東ドイツ人をそのまま西ドイツに向かうことを許可。また、東ドイツ政府は「チェコスロバキア経由で西ドイツに向かった東ドイツ人が自国に戻っても処罰なし」と決定

※チェコスロバキアは東ドイツ、西ドイツの両方に接していた国です
※チェコスロバキア経由で東西ドイツの行き来が事実上可能になった
※この情報はこのサイトさんに書かれていました。

1989年11月9日 東ドイツ人が西ドイツ(西ベルリン含む)に向かうことを許可(いわゆるベルリンの壁崩壊)

※東ドイツ人の行き来が自由になっただけですので、建前上は従来通り西ドイツ人(西ベルリン市民も含む)の行き来は制限されていたはずです。

1990年1月1日 西ベルリン市民が東ベルリンに向かうことも晴れて自由化される(建前が実質に合わせた形でしょう)

1990年4月ごろ 外国人の東西ドイツ通過が認められる

1990年7月1日 東西ドイツの通貨が西ドイツマルクに統一される

1990年10月3日 東ドイツの州が西ドイツに加盟し、新しいドイツとしてスタートする

イーストサイドギャラリーに行く

イーストサイドギャラリーまでSバーンで向かう

そのベルリンの壁は現在は撤去されていますが、一部では残っています。その主たるものがイーストサイドギャラリーでしょう。では、どのようにイーストサイドギャラリーに向かえば良いのでしょう?

図2. ブランデンブルク門とイーストサイドギャラリーの位置関係

ここでは、ベルリン観光の肝であるブランデンブルク門からの地図を示しています。地図の左側にあるのがブランデンブルク門、右下にあるのがイーストサイドギャラリーですね。ブランデンブルク門の最寄駅はブランデンブルク門駅(昔はウンターデンリンデン駅と称したらしいです)、イーストサイドギャラリーの最寄駅はベルリン東駅です。途中のフリードリヒ通り駅で乗り換えです。

※ブランデンブルク門駅からフリードリヒ通り駅まではSバーン(南北方向、この辺りは地下線)、フリードリヒ駅からベルリン東駅まではベルリン中心街も経由するSバーン(東西方向、高架線)でした。東西方向を結ぶSバーンは利用客が多く、中心街では10分に3本やってきますが、それでも8両編成が満席となる盛況ぶりでした。

ベルリン東駅に停車中の近郊電車

写真1. ベルリン東駅で出会ったベルリンの近郊電車(機関車はないので電車だと思います)

イーストサイドギャラリーに向き合う

そのベルリンの壁は一部が残されています。ベルリン東駅からすぐなので、行ってみましょう。ベルリン東駅は東ベルリン時代に「ベルリン中央駅」と称していたのに、近くに境界があったのですね…。

イーストサイドギャラリー:自由を求めている?

写真2. 私より芸術センスの良い落書き(高い建物はマンションでした、このマンションはセンスのない形態ですね)

イーストサイドギャラリー:ブレジネフとホーネッカーのキス

写真3. 有名なキス(私が政府高官ならお姉ちゃんとキ…)

イーストサイドギャラリー:ベルリンの壁が二重構造であった

写真4. 二重構造だったことを示す絵画

イーストサイドギャラリー:富士山が描かれている

写真5. 富士山が描かれている

このように壁にはさまざまな落書きが描かれています(写真2-5)。個々の落書きついては言及しませんが、さまざまな人がそれぞれの想いを込めて描いたのでしょう。

イーストサイドギャラリー:壁の断面

写真6. ベルリンの壁の断面

このようにベルリンの壁が途切れている箇所がありました(写真6)。ここから裏側に回ってどこかに行けないか行ってみましたが、マンションにぶつかって引き返しました。また、物売りもいました(壁グッズを売っていました)が、怪しくて近づけませんでした。

ベルリンの壁崩壊の前(1980年ごろから)の東欧の動きについては、以下の書籍で詳細に記されています。政府側・民衆側双方に密着したドキュメンタリーです。

ヴィクター セベスチェン(著), Victor Sebestyen(原著),三浦 元博(翻訳),山崎 博康(翻訳)
こちらもチェック!関連リンク

1年半後にベルリンの壁の別の観光名所に行っています。その様子もご覧ください。

ベルリンの壁:チェックポイントチャーリーと気球(18年ベルリン観光)

この移動の前後を読みたい!

さて、この移動の前後はどこに行ったのでしょうか?

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※それぞれ別ウィンドウで開きます。

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