写真1. ベルリン観光の肝、ブランデンブルク門
ベルリンの観光は時間との戦いです。主要な観光スポットを半日でめぐるために工夫を凝らしました。主要な観光スポットの紹介とそこをめぐるための工夫をご覧いただきましょう。
ベルリン観光の立案
ベルリンは891.85平方キロメートルある都市(そうwikipedia先生が言っていました)です。この広さはわが首都東京の1.42倍でとても1泊では回りきれません。今回はそれをやろうという無謀な頭を使う計画のわけです。
一般にベルリンの観光ポイントとして、以下の箇所が挙げられています。
- ブランデンブルク門(東西冷戦の象徴とされた場所ですね)
- ベルリンテレビ塔(東ドイツ時代
は国家に都合の良い内容の電波を発したに建設された場所ですね) - ベルリン大聖堂
- イーストサイドギャラリー(無駄な公共事業の典型、ベルリンの壁を残している場所です)
- カイザー・ヴィルヘルム記念教会(戦争の悲惨さを伝えます)
- 戦勝記念塔
- ポツダム広場の近代的な街並み
- 素敵なカフェ巡り(私に似合わない場所です)
- 歴史的に貴重な展示物のある各種博物館
- 市電87系統(ていうか終点はベルリン市じゃない…)
こう見ると多いですね。カフェは興味ないので省略。ポツダム広場の近代的な建造物はわが首都東京にもあるので、省略。各種博物館(美術品が多いらしい)はどうせ内容に興味がなく、ドイツ語や英語の説明も分からないだろうから、省略。こうして、ノルマは7つまで絞られました。
私はブランデンブルク門(ちょうど真ん中にあります)からスタートして東側から巡る行程にしようと考えました。ただし、乗り鉄要素(市電87系統)は翌日回しです。つまり、ブランデンブルク門 → イーストサイドギャラリー → テレビ塔/ベルリン大聖堂 → カイザー・ヴィルヘルム記念教会/戦勝記念塔という順番です。近接する観光名所は一気に巡るという作戦です。
ベルリン中央駅からブランデンブルク門への移動
図1. ベルリン中央駅とブランデンブルク門の関係
いつもどおり、googleマップで示しましょう(図1)。ベルリン中央駅(図1の上中央付近)の南東側にブランデンブルク門(図1の右中央付近)があります。この間は地下鉄55号線で直結されています。
ベルリン中央駅の地下ホームに着いた私はエスカレーターで地上に登ります。地上の出口からすぐ(徒歩3分?)の宿に大荷物を預けて、身軽になったところで、ベルリン観光に向かいます。
写真2. 新しい駅なのにホームと列車の段差が解消されていない
ベルリン中央駅は2006年と開業が新しいにも関わらず、ホームと列車の段差が大きいです(写真2)。どうやら高床式のホームにして段差を解消するということは、全く考えていなかったようです。合理的なドイツ人でもそこまでは思い浮かばなかったようです。
写真3. 開放的な駅構内(さて何時に撮影したでしょうか?)
地上の出口からすぐ(徒歩3分?)の宿に大荷物を預けて、身軽になったところで、ベルリン観光に向かいます。私が宿泊したインターシティホテルは2日有効な乗車券をくれたので大助かりでした。インターシティホテルはドイツ鉄道系列とのことですので、その点の融通がきくのかもしれません。
ベルリン中央駅からブランデンブルク門に向かいます。当初、Sバーンを利用して向かうことを考えましたが、2日間有効な市内乗車券を持っているので、乗り換えなしで行けるUバーンを選択しました。
写真4. 首都なのに2両編成(ブランデンブルク門駅で撮影)
この系統はわずか3駅しかありません。また、ベルリン中央駅はがらんとしているため、乗客が押し寄せることもありません。そのため、2両編成、単線運転で10分間隔で運用しているようです(写真4)。
ブランデンブルク門駅には写真が展示されていました。
写真5. 1806年から1918年までの様子
写真6. 役人の勘違いであっけなく壁が無意味になった歴史的瞬間に立ち会った門
地下駅の写真ばかり見てもしょうがないので、地上に上がって歴史的建造物を見てみましょう。
ブランデンブルク門に触れ合う
ブランデンブルク門の概要
ブランデンブルク門はもともとベルリンが要塞都市だった時代に、街の中と外の通り抜けのために建設されました。その後、ベルリンの玄関口(つまり、ブランデンブルク門の外側は市外だった!)としての役割を果たします。長い歴史の中で、ブランデンブルク門の飾りをナポレオンによってフランスに持ち去られたこともありました(後に奪い返したので現在は元に戻っています)。また、第二次大戦後の分割占領時代のイギリス地区(西ベルリン)とソビエト地区(東ベルリン)の境界に位置しており、後にベルリンの壁建造で通行ができなくなるという時代もありました。ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)で熱狂した市民がブランデンブルク門近くの壁に集結するということもありました(写真6)。その後の1989年12月22日には、ブランデンブルク門の通行が正式に可能になりました(この当時はまだ東西ドイツが共存した時代でした)。このできごとは東西ベルリン市民にとって大きなクリスマスプレゼントとなったことでしょう。ドイツ再統一時はブランデンブルク門の周辺は大変な人で賑わったといいます。このように、ブランデンブルク門はドイツの歴史と深い関係があるのです。
ブランデンブルク門と触れ合う
ブランデンブルク門の概要がわかったところで、実際に見物しましょう。
写真7. ドイツ古典主義建築の傑作であるブランデンブルク門
何らかのイベントが自然発生的にあったのか、人が集まって、門の全容は撮影できませんでしたが、平和な日常に溶け込んでいる様子が見られたため、これはこれで良いものが見られました(私の持論は人も含めて景色、というものです、写真7)。
裏側に回ってみましょう。
写真8. お尻から撮影
冷戦時代はベルリンの壁の無人地帯(ベルリンの壁は二重構造だったのです!)にありました。そのため、通るどころか近くで見ることも不可能でした。無人地帯に位置した歴史的建造物でも容赦なく破壊した東ドイツであっても、この建物を壊すことはしなかったようです。次は、そのベルリンの壁の跡を見てみましょう。
さて、この移動の前後はどこに行ったのでしょうか?
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