旧東西ベルリンの境界線付近の観光スポットに行くことにしました。該当するのは、ポツダム広場とドイツ技術博物館です。
図1. ベルリン中央駅と目的地2つの位置関係(いつもどおりgoogleマップの引用、手抜きですね…)
ポツダム広場の見学
ポツダム広場までの移動
さて、ポツダム広場にはどのように行けば良いでしょう?最もメジャーな行きかたはベルリン中央駅から15番線のSバーンに乗って、フリードリヒ通り(Friedrichstraße)駅で乗りかえることです。
写真1. ベルリン中央駅に到着するSバーン
このSバーンに乗って次の駅、フリードリヒ通り(Friedrichstraße)駅で下車します。この駅は東西ベルリンに分かれていた時代は西側からの列車の終着点(この駅じたいは東側)だったようです。現在は、ただの通過駅です。私はSバーンに乗車しましたが、13、14番線のREやRBでも移動することは可能です(IC、ICEなどは通過)。ただし、Sバーンのほうが本数が多いため、このときはSバーンを選択しました。
※ベルリン中央駅を発着するSバーンは実質1系統(ただし、郊外に行くと分岐する)のため、中心部の移動は行先は気にしなくて構いません。単に方向(上りか下りかという感覚でお考えください)に注意すれば良いのです。
写真2.ベルリン中央→フリードリヒ通りの車窓
せっかくなので車窓を撮影してみました(写真2)。この日は雨で寒かったです。そのフリードリヒ通り駅に着いたら、次に、地下に潜って、別系統のSバーンに乗り換えます。この系統も中心部では1系統です。そのため、行先には気にかけず方向のみ気にしました。
図2. フリードリヒ通り駅の構内図(本家本元DB様のサイトから引用)
私の記憶では何番線から乗車したか覚えていませんが、DB(ドイツ鉄道)の情報によると、12番線のようです。ここで乗車したSバーンは6両編成と短く、ベルリン中央から乗車した系統よりも空いていました。
写真3. ベルリンSバーン(南北方向)の車内
これでBrandenburg Torを通ったら正解です。ちゃんと私は正解しました。1回ベルリンに訪問していることが幸いしているのですね。このときに消化不良と感じたので、再訪したのです。
私の身の上話はともかく、無事にポツダム広場駅に着きました。
ポツダム広場周辺を散策する
そのポツダム広場駅じたいは地下駅です。そのため、地上に出ねばなりません。
図3. ポツダム広場周辺の地図
何となく地図を示しました(図3)。この地図によると若干離れています。私の目的はDBの本社とソニーセンターでしたので、地下通路を通って向かいました。
写真4. 通路上のSUSHI
駅と広場をつなぐ通路にSUSHIのお店がありました(写真4)。SUSHIの本番の日本に住んでいる私の認識では、SUSHIはお茶とともにいただくものですが、ここではコーラといただくのですね。
写真5. 1930年ごろの繁栄のようす
写真6. 1975年ごろの壁
写真7. 1989年の壁
写真8. 1999年の再開発
その通路には(右側に)歴史的な写真がありました。ポツダム広場は戦前はベルリンでもトップクラスの繁華街でした(とwikipedia先生から聞きました、写真5)。戦争がおこり、戦後にアメリカ管轄地区(とイギリス管轄地区)とソビエト管轄地区の境界にあったことから、再開発が進まず、気づいたら壁になっていました(写真6)。その壁が突然意味をなさなくなり(写真7)、再開発がなされました(写真8)。
では、現代の姿を見に行きましょう。
写真9. 現代のポツダム広場(ソニーセンター)
写真10. 現代のポツダム広場(ソニーセンター)
写真11. 現代のポツダム広場(ソニーセンター)
ソニーセンターの内部の写真です(写真9-11)。天井がドーム型になっていることがわかります(写真10)。現代的に開発されたポツダム広場にも弱点がありました。床の一部が金属板でできており、雨天時には滑りやすいのです。私は転倒しなかったので問題ありませんが、転倒したら店頭の人に笑われることでしょう。
写真12. ポツダム広場にそびえ立つDB本社
その近くにはDBの本社がありました(写真12)。本社があるのに、ポツダム広場駅に長距離列車(ICやICE)が停車しないのはセンスありませんね…。
そのポツダム広場にはベルリンの壁が残されています。それを見てみましょう。
写真13. ポツダム広場のベルリンの壁のあと
写真14. ポツダム広場のベルリンの壁に関する説明(誰か翻訳してください)
写真15. ポツダム広場のベルリンの壁のあと
写真16. ポツダム広場のベルリンの壁のあと
このような負の遺産を垣間見てポツダム広場観光を終えたのです。
ドイツ技術博物館
ポツダム広場からドイツ技術博物館までの道中
ポツダム広場から地下鉄(Uバーン)に乗車して、Gleisdreieckに向かいます。U2のRuhleben行きに乗れば問題ありません。もっといえば、U2号線のホームに行って、Rなんとか行きに乗って2駅のGなんとかで降りれば問題ありません(反対方向はPなんとか行きです)。
写真17. U2のポツダム広場駅
写真18. U2のポツダム広場駅
写真19. Gleisdreieck駅
地下鉄はほどなくして地上に出ました。U2号線の車両はわずかながら前面展望が覗けます。このように、目的駅に到着しました。ここからは、U3との乗りかえ口と反対の出口に出ました。
写真20. Gleisdreieck駅のホーム
写真21. Gleisdreieck駅付近の高架線
このように駅を出て、右に進みます。右に進んだら、突き当たりを右に曲がります。すると、こんな景色が広がっていました(写真22)。
写真22. 美しい運河と橋
このような景色が見えたら、目的のドイツ技術博物館はすぐ近くです。
写真23. 航空機が飾ってある(地球の歩き方先生によるとベルリン空輸で活躍した戦闘機のようです)
写真24. 入口までもうすぐ
航空機が屋上に置いてある建物(写真23)の手前を右に曲がって、道なりに進むとドイツ技術博物館まではもうすぐです(写真24)。入口はカフェと紛らわしいので注意しましょう。
ドイツ技術博物館の展示を眺める
ここは大変広く、お昼ごはんを食べた私には眠く感じました。それでも行ったのは、交通関係の展示が充実していると聞いたためです。多くの写真を撮影しましたが、代表的な写真を掲載しましょう。
写真25. ベルリン空輸で活躍した戦闘機
写真26. 昔の船
写真27. 速度を重視した自転車
ベルリン空輸で活用された戦闘機がありました(写真25)。3年前まで爆弾を投下していた戦闘機は、食べ物を投下したのです。結局ソ連のメンツまるつぶれですね。また、昔の船や速度を重視して、前輪だけ大きい自転車も展示されていました(写真26-27)。前輪だけ大きい自転車は、中学の国語の授業で取り上げられていました(当時から乗りものが好きだったのです)。
ベルリン空輸とは、アメリカ・イギリス・フランス占領地区(いわゆる西ベルリン)への物資輸送です。
第二次世界大戦でドイツは敗戦国となり、4か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト)に分割占領されました。ベルリンは、ソビエト占領地区の中にあるものの、ドイツ全体とは別に分割占領されました。
さまざまな思惑がある中で、アメリカ等3か国占領地区は「西側」に、ソビエト占領地区は「東側」に染まっていきました。つまり、ベルリンの西側占領地区は、ソビエト占領地区の中にある飛び地だったのです。ベルリン全体を自らの息がかかった体制にしたかったのか、ソビエトは1948年にベルリンの西側占領地区への陸上・水上交通を遮断します。これをベルリン封鎖と呼びます。
ベルリン封鎖に困ったアメリカは「空は封鎖されていないから、物資を戦闘機で届けるべ!」と、唯一の輸送路の空を活用したのです。これがベルリン空輸です。これがうまくいくと、結局ソビエトへの反感だけ増して、アメリカがヒーローになってしまいました。ソビエトの思惑通りにはことはいかなかったのです。
このベルリン封鎖がきっかけだったのか、ドイツは1つの国として独立できなくなりました。このため、ドイツは2つの国として独立(ただし建前上、ベルリンは依然として4か国による占領が続いた)することになったのです。
写真28. 口をあけたSL
鉄道館的な建物もありました。SL時代の展示が充実していました。これを見に来ていた現地のファンがいました。ただし、私はSLには興味ありません。一番印象に残ったのは口を開けたSLです(写真28)。私のような(SLではない)電車好きがそのような展示を期待すると、がっかりするかもしれません。
写真29. 昔の駅舎を再利用(アンハルター駅の駅舎を再利用)
写真30. 昔は使っていたであろうポイント
せっかくなので、外に出ました。ここは日本の鉄道博物館よりも静かで閑散としていました(日本の鉄道博物館ならば、ミニSL列車運行を告げるお姉さんの放送とそれに群がる人たちでざわついていることでしょう)。このような静かな空間もよかったです。展示物そのものよりもゆったりした空間が印象に残りました。
ベルリンの観光名所を見てみましょう!以下のページにまとめています。見ないと損ですね…。
ベルリン観光のおすすめスポットとモデルコース(18年ベルリン観光)
ベルリン観光では、前後でこれらを観光しました。
(次)ベルリンの壁:チェックポイントチャーリーと気球(18年ベルリン観光)→
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