ブダペストの目ぬき通りであるアンドラーシ通り。この通りはヨーロッパ大陸で一番古い地下鉄が建設された通りでもあります。この通りを歩いてみました。また、アンドラーシ通りに面している異色の博物館にも寄っています。
写真1. 美しいアンドラーシ通り
アンドラーシ通りの概要
いきなり「アンドラーシ通りに行きました~」なんて書かれてもさっぱりでしょう。そこで、アンドラーシ通りの概要を復習しましょう。
図1. アンドラーシ通りの場所(googleマップより引用)
まずは、場所を確認しましょう(図1)。アンドラーシ通りの起点はエリザベート広場ですが、この広場付近にたまたまJTBの支店がありました。そこから英雄広場までの道路がアンドラーシ通りです。googleマップには通りを表示する機能はないようですので、この2点を結ぶ歩行経路で示しました。
アンドラーシ通りは中世にはない通りでした。1872年に当時の首相アンドラーシによって造られた通りです。19世紀まではこの通りはなかったのです。では、ずっとこの名称だったのでしょうか。1947年にはナチスからハンガリーを解放したソ連(誰ですか支配者が変わっただけと言った人は)の指導者を記念してスターリン通り(当時のソ連の指導者の人です)と、1956年のハンガリー動乱にはハンガリー青年通り(スターリンの銅像を壊すなどの行為が横行したときです)、1957年から1990年までの社会主義政権では人民共和国通りと名づけられました。社会主義が終わったら、元のアンドラーシ通りに戻りました。
なお、この通りには地下鉄1号線が通っており、1号線は世界で2番目に古い地下鉄です。世界初の地下鉄がロンドンですから、ヨーロッパ大陸では最も古いのです。パリやニューヨークよりも古い地下鉄ですね。
アンドラーシ通りを歩く
では、アンドラーシ通りを歩いてみましょう。何か所か訪問したので、紹介しましょう。
オクトゴン周辺
まず紹介するのはオクトゴン周辺です。オクトゴン?何それ?という声が聞こえてきました。
図2. オクトゴンの位置(googleマップより引用)
アンドラーシ通りと環状大通りが交差する地点がオクトゴンです。地下鉄1号線と路面電車の4系統(と6系統)の交差点です。デアーク広場を中心部とすると、中心部から放射状にのびる放射軸と中心部を迂回する環状軸の交差点ということもできます。
写真2. オクトゴン周辺のアンドラーシ通り
オクトゴン周辺のアンドラーシ通りです(写真2)。横方向に伸びるのが環状大通りです。この通りには路面電車が通っています。
写真3. 美しいアンドラーシ通り
写真4. 美しいアンドラーシ通り
アンドラーシ通りを眺めてみました。ハンガリーに限らず、ヨーロッパの信号機の変わるタイミングは早いです。そのため、ゆっくり渡って写真を撮影するのは難しいです。したがって、美しい通りはなかなか撮影できません。この写真を見ると、アンドラーシ通りは美しい通りであることがわかります。優雅な通りとして名をはせているだけあります。
恐怖の館への訪問
恐怖の館という施設があります。もともと、矢十字党(ナチス寄りの政党)の秘密警察の本部、そして共産政権の秘密警察の本部があった場所に、そのような恐怖政治の負の歴史を紹介している場所です。
図3. 恐怖の館の場所(googleマップより引用)
恐怖の館はそのオクトゴンよりも少し中心街から離れた場所にあります(図3)。その付近のアンドラーシ通りの風情を紹介しましょう。
写真5. 優雅なアンドラーシ通り
オクトゴンから1駅進んでもアンドラーシ通りは優雅です。ただし、あまり面白みはありませんが…。
写真6. 優雅なアンドラーシ通り
歩道の脇に自動車が通れる場所があります(写真6)。これはもともと馬車が通れるように整備された道です。
写真7. 優雅なアンドラーシ通り
自動車の往来はそこまで多くありません。それでも、道路横断は横断歩道からのほうが無難です。日本とは異なり、歩道橋はありません(写真7)。景観を重視しているのでしょう。
写真8. 優雅なアンドラーシ通り
このように石造りの優雅な建物が多いことがわかります。東駅周辺とは異なり、建物がすすけていません。
恐怖の館は撮影禁止でした。そこで恐怖の館の内容を紹介するよりもハンガリーの恐怖政治(後半は恐怖政治ではありませんが)について簡単にまとめてみましょう。
※なるべく中立に書きますので、各自の立場や認識とは違いがあるでしょう。あくまでも流れを簡単に示しただけです。
1) 矢十字党における恐怖政治
第二次世界大戦までの歴史で「ナチスドイツはやばい」ということは多くの人が認識していることでしょう。しかし、彼らは単独で行動していたわけではありません。第一次世界大戦後にオーストリア帝国が崩壊し、そこに多くの国々が誕生しました。当然、それらの国には利害関係があります。ドイツと同様、ハンガリーも周辺国に領土を奪われました。そこで、周辺の領土を取り戻すためにハンガリーはナチスと同盟を結びます。その政党が矢十字党です。ナチスのように横暴な運営を実施しました。
2) 共産党ラーコシの恐怖政治
ナチスとその愉快(でもないか)な仲間たちは周辺と対立します。その対立の最たるものが戦争です。戦争の結果、ハンガリー地区からナチスたちを一掃したのはソ連でした。これはソ連の影響力を大きくしたいというスターリンの意図もあったことでしょう。
そして、戦後、ソ連に潜伏していたラーコシがハンガリーを運営します。彼は共産党の政敵のみならず共産党幹部も処刑しました。この恐怖の館でもラーコシの個人崇拝のポスターがあり、ラーコシの異様な雰囲気が印象に残りました。
写真9. 人民の父、ラーコシの美しい笑顔(うさんくさい!、wikipedia先生より)
3) ハンガリー動乱
ラーコシは自由に振る舞いすぎました。自由すぎてソ連に「君はやりすぎだ、後はソ連で休みたまえ」という指導を食らいました。次はナジの時代です。彼はラーコシよりもまともな運営を行い、ソ連からの自立を宣言します。これをソ連は許すことができず、「社会主義の友人を助ける」ためにハンガリーに戦車を送り込みました。これがハンガリー動乱です。
4) カダルによるまともな社会主義政権
ラーコシはソ連寄りの恐怖政治で国民にそっぽを向かれ、ナジは国民寄りの政治でソ連から指導を受ける始末でした。そして、次の指導者はカダルでした。カダルはソ連の顔色を伺いつつ、国民よりの政治を行いました。そのため、ソ連ブロックの社会主義国家ではかなりまともな運営を行いました。その間は秘密警察もありませんでした。したがって、(私が見る限り)恐怖の館にはカダル時代の展示物はありませんでした。ただし、カダルはハンガリー動乱でソ連側についていた人物であることは認識すべきでしょう。
写真10. 比較的まともなカダル(カーダールという表記もあります)
5) 鉄のカーテンの崩壊と社会主義政権からの決別
冷戦期、東西ヨーロッパの境界にはソ連陣営が西側陣営から攻撃を受けた際に防御できる「鉄のカーテン」がありました(というのは建前でソ連陣営の人々が西側諸国に逃げ出すのを阻止するためでした)。ハンガリーは西側諸国であるオーストリアとの間に「鉄のカーテン」を築いていましたが、ハンガリー人にとっては有用ではなく、カネだけがかかる代物となっていました。そこで、ハンガリーは鉄のカーテンを財政上の理由で維持しないとソ連に通告しました。ソ連も了承し、鉄のカーテンはなくなりました。この勢いでハンガリーは社会主義と決別したのでした。
それでは、この周辺を散策しましょう。
写真11. 鉄の鎖がある
外には鉄の鎖があります(写真11)。これは締め付けを表現したのでしょうか。
写真12. ソ連が社会主義の友人を助けるための行動
1953年のベルリン暴動(場合によっては東ベルリン暴動ともいいます)、1956年のハンガリー動乱、1968年のチェコ事件など、ソ連が兄弟国を締め付けた社会主義の友人を助けた際の写真があります(写真12)。
写真13. 社会主義から決別して喜ぶ人々
1989年にソ連の兄弟国は一気に社会主義から離れました。これは親方ソ連が兄弟国を助ける余裕がなくなったこと(ソ連は兄弟国に軍事的な圧力をかけるとともに、援助をしていました)もありましょう。私のような個人旅行客にとっては自由に行動できて良い時代になりました。冷戦中の東ヨーロッパであれば、自由に鉄道写真を撮影できません。これは私が旅行する目的がなくなってしまいます。
写真14. 入口は警戒態勢!
入口は警備員が立っていました(写真14)。この中に入るのは勇気が要ることです。
写真15. むごい体制の犠牲者
どのような政治体制が良いかというのは永遠のテーマです。政治は利害関係の調整という機能があり、誰にとっても良い体制はないからです。それでも、1ついえることがあります。むやみやたらに人を殺す体制は良くないということです。このように政治体制による犠牲者が出る(写真15)ような国はまっぴらごめんです。
中の展示物は圧巻でしたが、日本語による情報が一切ありませんでした。私には地下の牢獄が不気味なこと、ラーコシ関係の展示物が多かったことが印象に残りました。
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さて、前後ではどこに行ったのでしょうか?
←(前)ブダペストの景色が楽しめる場所への訪問(観覧車、19年夏)
アンドラーシ通りの散策と恐怖の館への訪問(ブダペスト観光、19年夏)←今ココ!
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